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Awakning
真の自己に目覚める


時は、2000年前にさかのぼります。 イエス・キリストとして知られているイェシュアの約30年の人生で、 いわゆる12使徒と呼ばれる弟子達を持ち(弟子は12人だけではありませんでしたし、 女性の方が多かったのですが、 キリストの伝承が作られた時に省かれました。 勿論、12使徒と言われる人達は、 イエシュアの近くにいて、 活動を支えていました。)、 弟子達に教えを残したのは、晩年の3年ほどでした。 最初はエルサレムに滞在していましたが、時期が来ると、 拠点を故郷のナザレへと移動しました。

イエシュアは弟子達を見ていました。 蛹の殻を破って飛び出そうとする蝶のような、 彼らの覚醒への切望に彼が応えてから、 何カ月もが過ぎました。 その暖かい夏の日、彼は アラハとのアチューンメントの練習である「ヨーガ」を与え始めました。 それは、本当の主の祈りで、 神との調和と単一性(ワンネス)の領域に入って、 同調する方法の指導でした。 そうです。イエシュアは見ていたのです。 ある時は、イエシュアの教えをただ聞くよりも、それを行いました。 ある時は、イエシュアの弟子の中でも核を形成する貴重な少数者を残し、 実際に練習しました。

「何故、練習に耳を傾けてすぐに始めるのはいつも女性なのだろうか?」と、 イエシュアは考え始めました。 イエシュアは、結局女性しか従わないのではないかと、 従っていた多くの男性を疑い始めました! しかし、多分それはいつも、 女性性が呼び覚まして目覚めるのは男性性だということではないだろうか? イエシュアは、 女性の秘密の深みと神聖な価値を明らかにしたイエシュアの教師と、 その導きに従った男性に、静かに感謝を捧げました。 「女性が先導する時ではないが、 冬の暗い剥奪の後に春の雨が降るように、 その時は、この世界に押し寄せるだろう。」 イエシュアがよく知っていたように、この世界の終わりは確実です。 それがその時でした。

イエシュアにとって世界とは、人がエゴで知覚した物事です。 「この世界の終わり」とは、実際に世界が終わるのではなく、 エゴから物を見る見方の終わりを意味します。
私達は、イエシュアに着いて、ナザレへと移動していました。 エルサレムからナザレまでは、歩いて4~6日。 天気に左右されます。イエシュアはその移動中にも呼吸法を教え始めました。 晴れて歩き疲れた日は早めに休む場所を決め、横になって呼吸法を習いました。 ところが日を追うごとに、男性の参加人数が減りました。 家族を置いてまで教えに従おうとしていた人達に、呼吸法の重要性が まだわからなかったのも、仕方がありません。 ところが、女性は、深くは考えずに受け入れるため、不参加者はいなく、 いつも全員練習に参加していました。私は、ついに 12使徒のヤコブに言いました。ヤコブはテントを持って移動していて、 雨が降るとみんなをテントで寝かせても自分は木の下で寝るような、 本当に親切な男性で、練習にも参加していました。 「イエシュア、怒ってるよ。他の人を呼んで来た方がいいよ。」 ヤコブは、「イエシュア、怒っているかなあ。」と言いながら、 呼びに行ってはいませんでした。次の日の練習の時、ついに、イエシュアは そのことに触れました。 「私の事を怒っているという人もいるが、怒ってはいない。 呼びに行かなくてもよい。」 そう言って、来ない男性達を咎めもせず、 意識を別の所へと向けました。 そしてナザレに着く直前、それは起きました。イエシュアが 大きな岩の横で神に感謝をしていたのです。 彼は、男性陣を咎めもせず、止めもせず、 ただ、啓示を受け取っていたのでした。 それが、女性性は受容性、男性性は能動性であり、 今から教え始めるイエシュアにとって、 受容性の開いている人を集める事が大切だという、 万物を通して教えた神からのメッセージでした。 感謝をし終わって私達が何故感謝をしていたかを聞いて間もなく、 男性達がイエシュアに謝って来ました。 それから彼らは、イエシュアの近くで、 自分達が学ぶ傍ら、本当に 教えのサポートをしたのです。 イエシュアは、『個人』として物を見るところにはいませんでした。 『個人』として物を見ると、 「何故、私に着いて来たのに、私の教えを聞かないのだ!」 と相手を責めるか、 上手に、そこから脱するための手を打ちます。 癒されていない心は、個人的に物を見る所から 脱する事は出来ません。 痛みを超えている心は、 物事を違った見方が出来るのです。 そして、何が起きようと、 それは万物の創造主が万物を使って自分へと教えている事なのだから、 それを知れば、それは終わるのです。
そのような在り方に、人々は心を惹かれて、 集まって来たのです。その後、 ナザレ村にしばらく滞在し、 最初はガリラヤ湖の南で、その在り方を教え始めました。 それには、呼吸法が不可欠だったのです。 まず、呼吸法を習い、 それから、やっと教えへと入る事が出来ます。

夕暮れが近付いていました。 太陽の光の天使が、 その光をベルベットのような柔らかさへと変え 、辺りは暗くなったが、岩や草は内側から光っているように見え、 昼間の様相は夜へと移り変わっていました。 「目覚めたハートからその目で見ると、 それらは本当にそうしているから。」 そう言って彼は、静かに考えました。
Ah-bwoon, Ah-bwoon, Ah-bwoon…
d’washmaya! d’bwashmaya! d’bwashmaya!
全てが、 常に生きているエネルギーと一つの振動だと感じられるまで、 練習して来た祈りが、 一つの声、一つの息、 一つの神聖な出来事として鳴り響いた時、 それは始まりました。 彼が右手を上げ、 優しく開いている手のひらの、 親指と人差し指と中指を広げ、 薬指と小指を曲げた、 エッセネ派でよく知られているサインを作った時、 皆は思いがけずハッとしました。 それは敬礼のサインであり、 いつもこのサインの時には、 教えが授けられる時であり、 静かな注意を喚起していることを、 皆知っていました。 それを見て皆、座ったり、 草の上で大の字になったり、 手を繋いだり、 他の友人のお腹の上に頭を置いて横になったりしました。 男も女も、皆、ハートの友です。
“Tubwayhun l’meskenaee b’rukh d’dilounhie malkutha dashmaya”

これは、次のように発音します。
トゥーバイユーン・デマスカニヒー・バルーフ・デホーネー・マルクータ・ダッシュマイヤー

彼の言葉の本質が、 誤訳の発生によって失われ始め、 それらが伝えた偉大な知恵と癒しの力が広まるには、 まだまだ長い年月がかかることでしょう。 いつも、そういった修復の時機が整う前までに、 多くの世紀が過ぎ去ります。 彼の主の祈りは、 決して、強制される習慣のような、 決まり文句ではありませんでした。 それはアラム語で、彼の言葉は、 少なくとも、聴く耳を持ち習慣を拒否するハートに、 秘密の叡智を伝える事に成功しました。 本当に、良い土壌へといくつもの種を落としました。

ナザレ村にしばらく滞在して呼吸法を習ったある日、 ナザレ村から何時間もかけて歩いて、 ガリラヤ湖へ向かいました。 ガリラヤ湖の南端辺りに着いた時は、 夕暮れになっていました。 ここで初めて、私達の質問に答えた最初の言葉が、 これでした。 これが、山上の垂訓の始まりです。 たったこれだけのアラム語の説明が、 山上の垂訓の全てです。 「山上の垂訓」という名前も「八福」という名前も、 的を得た名前とは言えませんが。 訳するなら、「存在する姿勢」というところでしょうか。 その「存在」も、真に、今この瞬間に存在する、 もしくは、真の自己として存在する、と言えるかも知れません。 これは、みんなが理解出来るように少しずつ説明され、 時間をかけて、何週間も掛けて、 出来上がりました。 記憶は場所と繋がるので、 場所を変えながら教えられました。 勿論、聖書に書かれているものと、 実際のものは違います。 イエシュアの教えは、 政治利用の為に変えられ、人を戒めるものとして扱われたり、 誤訳があったりして、 当初のものとは随分違うものになっています。 ましてや、悟りを開いていない者の目に映るものと、 開いている者の目に映るものは違うので、 理解すら出来なかったでしょう。 彼が教えていたのは、覚醒する事、つまり、悟りを開く事でした。 そしてそれは、次元を超えて物理世界へとやって来た私達の、 元の場所へと還る為に私達が仕掛けたものでもあります。

これには、段階があります。 まず、自分の知覚は、つまり考えは、歪んでいるということを知る事。 これは、奇跡講座(ACIM)で詳しく書かれています。 次に、ハートの感覚を養う事。 これには時間がかかります。 呼吸法が必要になり、 感情を感じる所とハートを感じる所の違いがわかるようになり、 何がエゴで何がエゴではないかを、ハートで感じられるようになり、 そして、思考を思考に振り向かせて、 自分の思考を見る事が出来るようになる事。 そうして初めて、 次の段階に入る事が出来ます。 自分を癒す事です。 最初の二つの段階が出来ていないと、 癒すつもりで、自分を否定し続ける事になります。 取り組むことが苦しみになります。 ハートで感じる事と呼吸法が出来るようになって初めて、 そこから抜けて癒すことが出来るようになります。 それは、苦しい事ではありません。 自分の苦しみを見つけてそれが解除されることは、 本当にほっとする事が増える事で、 心から楽しめるようになる事です。 そして、癒すことに慣れて、 時間を掛けないでも、それが出来るようになると、 イエシュアのように、 いつでも真実と繋がり、 いつでも啓示を得られるところへとシフトします。 これが本当の、覚醒、悟りであり、 瞑想や光の体験は、これとは関係がありません。 不思議な体験は、私達が物理次元の存在ではないということを 私達に気付かせる出来事ではありますが、 在り方を変えるものではありません。 私達の在り方が 真の自己と同じものになる時、 初めて、 この世界に居ながらにして、 この世界に属さないで歩く事が出来るようになります。 「世界」とは、イエシュアにとって、 人間の誤った知覚で物事を見ている事の全てです。 これらは、魔法のように一瞬で成し遂げられるものではありません。 自分の理解が一つずつ進むのには、時間がかかります。 そうして、積み上げられるものです。

弟子達は、彼が道の10の要素を展開する、 これが単なる始まりだとは知りませんでした。 10の鍵の教えと啓示は、それぞれ、お互いに必然によって繋がっていて、 それぞれ一つずつ、それ以前のものに依存しています。 イエシュアは、 数日と数週間のうちに弟子達を驚かせました。 ギリシャ人が後に翻訳したように、 混乱や「哀悼」に対応する全く新しい方法が登場したからです。 イエシュアは、柔和、正義、慈悲のような物事への、 完全に新しい意味と取り組み方へと深く導きました。 イエシュアが確かに、平和をもたらす人になるという運命だったいうことは、 言うまでもない。 この数週間後、 あの練習はその為の―私達が一番恐れるエネルギーさえも、 つまり、 生きている魂を騙す偉大な敵、 他人による判断や迫害を、 全く新しい方法で見て変えて、完全に生まれ変わる―準備だったと、 弟子達を本当に驚かせました。 とりあえず、岩と空とお互いの最終的な輪郭が、 暗闇の暖かさに染まるにつれて、とりあえず、 弟子達の内面の固い思考や知覚の輪郭も、 縄を解かれて 単一性(ワンネス)の輝く広がりの現存の中に溶け込んでいき、 とりあえず、 弟子達は leh-mesken'-ahee bah-roochのこの霊的な芸術に没頭しました。 それは、名言ではなく、哲学ではなく、 在るものへの神秘的な調和のヨーガである、 生きた練習であり、それは、内なる目が覚めるまで見えないものである。  
引用全てJAYEM著『COSMIC CHOCOLATE ORGASM』
 加藤理恵訳

「とりあえず」が多いのは、本当に、「とりあえず」習ったからです。 本当に達成した者は、 二度と生まれることがありません。 この時に弟子だった者達が、 現代に生まれ変わっています。 それは、『帰る時間』になったから。 帰る時間にみんなが帰る事が出来るように、 私達は着々と準備をしていたのです。 私達はこの地球で遊び、 気が済むまで遊んだら、帰ります。 それは本当に壮大な遊びです。 今まで、悟る事は難しいとされて来たのは、 まだ帰る時期ではなかったので、 本当に悟る方法が封印されて来たからです。 イエシュア、イエス・キリストは、 私達の代表として、帰り道を知らせる存在です。 彼は、今も私達をサポートしています。 そして、今度は、私達が、あなたが、 帰る番です。 200万の魂がこれから覚醒すると言われています。
覚醒とは、実は、 今まで間違って考えて、自分を苦しい目にあわせて来た事を、 自分が修正してそこから立ち去る事。 つまり、真実と自分を一致させ、 本当に心穏やかになる事。何かを達成して、 凄い自分を見てもらう必要性から脱し、 本当に幸せになる事です。