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Awakning
真の自己に目覚める


1.神秘体験

悟りを開く、覚醒するというと、最初に求めるのは神秘体験かも知れません。 瞑想や呼吸法によって、もしくは、何もしなくても突然、 何か、この世のものではない、光を体験したり、至福を感じる体験をしたり、 日頃の心理的な苦しさを感じなくなるような、何か、特別な体験を覚醒と言ったりもします。 物理世界の喧騒の中で生きている人間にとっては物理世界が全てであり、 覚醒と言われるような派手な神秘体験でないにしても、 何か、物理的ではない世界を体験する事が、精神世界への入り口となる事が殆どなのではないでしょうか。

特に日本においては、悟りというと「禅」というイメージがあるでしょうし、 禅や瞑想をする事は、人の意識を物理世界以外へと向かわせます。 そして、いつか、思考が止まった時に何かが起きる事を期待して、それを続けます。 本来、宗教の開祖となる存在は覚醒した存在で、本来の宗教にはその教えの中に必ず呼吸法が存在します。 呼吸法は実際に精神世界においては重要なものですが、 神秘体験においても使用され、向こうから何かが来るのを待つ瞑想よりは、 能動的に神秘体験を起こそうとするものでもあります。

そして、悟り・覚醒というものをまだ知らない人々にとっては、 そういった神秘体験が、最大の覚醒に思えます。 この物理世界を生きる苦しみを持つところから見ると、 神秘体験が、その全てから自分を救ってくれるように見えるからです。 貯金をある程度持っている人ではなく、全く持っていない人の方が、一獲千金を狙うのと同じように、 精神世界をまだ知らない人にとっては、覚醒の全てが魔法に思えるのです。 まるで、ある日ある時不思議な事が起きて、魔法のように、何が起きても平安な気持ちになれるのが、 覚醒に思えます。だからこそ、神秘体験を求めるのでしょう。

しかし、神秘体験は体験であって、私達の在り方が変わるものではありません。 どんな体験をしたにしろ、人間は、ある程度の長さしかその気分を維持出来ません。 生きている限り、「個」としての思考があり、その思考が何を言ったかによって、 一瞬で気分が変わります。神秘体験というのは、入り口であって、 悟り・覚醒の完了ではありません。ほんの入り口に過ぎないのです。


2.思考を思考に振り向かせる

精神世界の入り口を入って最初にやる事は、「思考を思考に振り向かせる」という事です。 これは、自分で自分の思考を見ているという事です。 自分は、いつも何を考えているのか、何をどう思っているのか、どんな事があるとどんな思考が走るのか、 自分の思考を見る事によって、今までの物の見方を逆転させていくのです。 精神世界や心理学などでは、どこかで覚醒した人が言ったような言葉の端々がひとり歩きをしているかのように、 あちこちにちりばめられていますが、その中になかなか含まれていない言葉があります。 それは、「物事は外側で起きているのではなくて、内側で起きている」という事です。 私達は、何かが起きると、それは、外側から自分の「身に降りかかって来た」事だと知覚します。 しかし、実際には逆なのです。まず、私達の内側で起きてから、外側で現実化しているのです。 従って、覚醒するためには、自分の思考を見張る事が必須不可欠です。 自分の思考を見張る事で、その他にも沢山の気付きがあるでしょう。


3.浄化

私達は、この世に生まれてから言語を習得するのと同じように、 この世界での物事の捉え方や対処の仕方も習得して来ました。 それは、真の自己から遠ざかる方向にです。それが人間の体験だからです。 それこそが、私達の苦しみの源なのです。 人間である、つまり、身体がとても重要であり、物体もとても重要であり、 それらにしがみついている世界から、 自分は目に見えない存在であり、身体や物体は重要ではないというところへと移行するには、 積み上げて来たものを解消し、本来の自己であるものを積み上げて行かなければなりません。

精神世界の本を読んで、自分のアイデンティティが身体ではないと、頭ではわかったつもりになっても、 その、考える事の全ての基となる所には、「自分は身体である」というアイデンティティがあり、 全てがそこから始まっているならば、やはりアイデンティティは身体でしかないのです。 そしてそれらは、簡単には変わりません。 何故なら、心の痛みと強く結びついているからです。

心の痛みがある場所では、私達は正常ではいられません。 嫌な事があると、人は、それを無意識下へと追いやります。 そして、無意識下へと追いやられた痛みに触れそうになると、 それらがあまりに痛いので、衝動的に、絶対に、 それらを感じないようにします。そういう時は、 物事を正常に視る事も出来ず、 何かに囚われていて頭が固く、 もの凄い情動で他人をはねのけます。

本来の自己に戻るには、それらを浄化しなければなりません。


4.投影

人は嫌な感覚を感じると、それは目の前にいる人など、自分の外側から何かがやって来たと知覚しますが、 それは、投影です。 投影は、よく映写機に例えられます。映画館で映画を見る時、 見ているのは白いスクリーンに映った映像ですが、 どんなに映像が流れても、スクリーンは白いままです。 実際には映像は、映写機のフィルムの中にあります。 その、映写機が、人の頭の中、白いスクリーンは、他人や、目で見る出来事です。

人間は、無意識のうちに、この、白いスクリーンを見て、 そこに映像が存在するのだと、勘違いしています。 しかし実際にそれらが存在するのは、自分の頭の中。 投影するのは、自分が自分を否定した事に対してです。 心の痛みは、実は、自己否定です。 もし、何が起ころうと自己否定しなければ、痛みになり得ません。 この人生で今まで自己否定した回数を数えたら、 ものすごい回数になるのではないでしょうか。 同じパターンのものを分類したとしても、相当な数のはずです。 それらが、浄化を待っています。


5.1人では癒さない

浄化を1人で行う事は出来ません。 何か、浄化されるのを待っている事柄があると気付き、 だんだんと浮上して来てある時ついに何かが起き、 「ああ、これだ」とわかり、 どのように浄化して行ったらいいのか、一歩ずつ歩みを進める出来事が起き、 そうして、浄化されるところへと…導かれるのです。 自分1人の思考は、「個」であるエゴの思考。 エゴの思考は、癒しを知りません。エゴの思考に任せると、 また自己否定へと落ちて行くでしょう。 この段階で、導かれているという事を本当に知り、 見えない存在、見えない意識と共に歩くようになります。

6.愛か怖れ

自分が浄化されて行くと、怖れから反応する事が減って行き、 心穏やかな瞬間が増えてきます。 無意識下の痛みを意識下に浮上させる事が出来るようになり、 更に深い無意識下にあった痛みも浄化して行けるようになります。 自分が怖れから反応しなくなってくると、 少しずつ、この世の中には、愛か怖れしかない事がわかってきます。 浄化が進めば進むほど、安心が広がり、愛を感じやすくなります。

7.学び

ここまでの流れは、初期の段階で、まだまだ深い学びが沢山あります。 悟り・覚醒とは、一瞬では成し得ない、沢山の技術のマスタリーでもあります。 自分の思考を見張る事をマスターし、 何がエゴで何がエゴではないか区別する事をマスターし、 赦し(自分の頭の中の自己否定の浄化)をマスターし、 創造する事をマスターし、 正しさより愛を選ぶ事をマスターし、心が平安でいる事をマスターし、 今この瞬間を生きる事をマスターし、 真の自己に繋がる事をマスターし、 この地球に生まれた真の望みを生きる事をマスターし、、、。

アイデンティティを根本から移行して、沢山の事をマスターして、 肉体を持って肉体を感じながらも、 肉体を超えて生きる為には、 その方法を学ぶしか、そこに行き着かないのです。 そして、その方法、道は示されています。 今、これまでになく沢山の魂が覚醒する時期に入っています。 これは、生きている間にしか出来ない事です。

悟り・覚醒とは、一瞬で起きる簡単なものではなく、 熟練して熟練して行くものであり、 特別な人しか出来ないものではなく、 誰もが出来る事なのです。